追  悼  文
  1    大幸勇吉   2     柴田雄次   3      片山正夫   4     市河晴子
  5     阪谷芳郎   6  Yamaguchi Einosuke   7     桜根孝之進   8    佐佐木信綱
  9   Mizuno Yoshu   10    小原喜三郎  11     宮崎静二  12    奥中孝三
 13     大西雅雄  14     大幸勇吉  15      柴田雄次  16     鮫島実三郎
追悼文1 櫻井錠二先生を悼む      オオサカ
門弟 理学博士 大幸勇吉
(1866-1950)
科学雑纂
科学第9巻 第3号
 本年<昭和14年>1月28日我が科学界の耆宿<キシュク=老いて徳望、経験の優れた人=広辞苑>櫻井錠二先生溘然<コウゼン=突然>薨去<コウキョ>せらる。実に我が学界に於いてのみならず又我が国家に於ける重大なる損失であって哀惜の極みである。特に門弟として50年間も先生の知遇を辱<カタジケノ>うしたる余に於いては追慕哀悼の情切々として迫るものがある。恩師自記の略歴に先生の経歴並びに功績の一端を叙することにした。(省略)

 先生は最初有機化学に関する研究に興味を有せられたが夙<ツト>に化学の発達には化学の基礎として理論化学の肝要なることを確認せられ化学者の大多数が有機化学の領域に没頭せる時代に於いて其の方面の学者の冷評をも顧みずあらゆる機会を利用して理論化学の重要なることを論述せられ、ファントホッフ、オストワルド、アレニウス、ネルンスト等の諸大家の研究によって理論及び物理化学が急速に発展するや先生は益々其の重要性を鼓吹せられたのであった。先生の溶液の沸点による溶質の分子量測定法の改良原理は其の後ベックマン等の其の測定装置に利用せられた。先生の熱心なる努力とその門弟池田菊苗博士等の絶えざる尽力の結果として物理化学の原理は欧米諸国に先んじて我が普通教育に導入せられ又実業界にも夙にその必要を認識せしめ従って我が国の化学及び化学工業の発達に貢献せられる所甚大なるものである。

 先生は大学教授として在職中明治21年6月理学博士の学位を授けられ同30年6月評議員を命ぜられ同40年理科大学長に補せられ、又大正元年8月総長事務取扱を命ぜられたる外、諸種の委員会の委員又は委員長を命ぜられたる其の数は枚挙に遑<イトマ>なき程である。大正8年4月定年制の内規に従い依願免官となり更に東京帝国大学名誉教授の名称を授けられた。

 先生は大学より退職せられたる後大正9年貴族院議員に勅任せられ同15年枢密顧問官を拝命昭和11年議定官に補せられ又同13年宗秩寮<ソウチツリョウ=旧宮内省の一局=広辞苑>審議官を仰付られ而して正二位勲一等(旭日)の栄位にあらせられたが更に昭和14年1月勲功に依り特に男爵を授けられ尚又勲一等旭日桐花大綬章を拝受せられた。

 先生は明治31年東京学士院(後の帝国学士院)会員に選挙せられ大正2年より同15年まで帝国学士院幹事の職にあり而して同年同院長に挙げられ爾来再選又再選にて薨去に至るまで其の職にあらせられた。

 明治11年東京化学会(大正10年日本化学会と改称)の創立後間もなく帰朝せられた先生は常議員或いは会長として同会の為め種々尽瘁せられ同会の発展従って我が化学の進歩に貢献せられたる所大なるものがある。明治40年先生が大学在職25年に達せられたれたるとき友人及び門弟は其の祝賀会を催しその際有志者の虚資せる金額を櫻井化学研究資金として東京化学会に寄附し而して化学会は之れによって明治43年以来毎年優秀なる化学報文提出者に櫻井賞牌に金壱百円を添えたる褒章を授与しているのである。

 先生は其の活動の初期においては化学及び化学教育に重要なる貢献を致されたのであったがその後は我が国に於ける化学研究の振興並びに学術の国際的事業に大いに尽瘁せられたのである。

 大正2年高峰譲吉博士が米国より帰朝の際帝国の現状に鑑み国民科学研究所設立の必要なることを高唱せられたるに端を発し次で欧州大戦の結果欧米より医療並みに工業に必要なる薬品及び原料の輸入が途絶し理化学の独創的研究を旺盛ならしむべきことの痛切なる教訓を得て先生を加えて特別委員が設けられ又渋沢男爵等の実業家も加わり政府に建議するなど諸方面に向って大いに運動せられ遂に渋沢男爵を委員長とし先生等7名の常務委員が設けられ茲に財団法人理化学研究所の設立を見たのである。この理化学研究所に於いて理化学及び其の応用の研究が盛んに行われ而してこの研究所が我が国家に多大に貢献しつつあることは周知の事実である。




学術研究会議は化学及びその応用に就いて内外における研究の連絡及び統一を図り其の研究を促進奨励する目的として大正9年設立せられ文部大臣の管理に属するものであるがその創立については先生大いに尽力せられ其の成立するや会員となり副会長に挙げられ同14年会長に選挙せられ爾来其の薨去の日まで再選又再選で15ヵ年間其の職にあって、其の目的達成に尽瘁せられたのである。

 理化学研究所、学術研究会議等の設立を見たるが尚更に学術研究の振興が我が国の現状に於いて肝要なることが我が学界に於いて強調せられ遂に昭和6年1月先生は古市、小野塚両博士と共同発起の下で我が学界及び関係諸方面の代表的有力者百数十名の会合を見るに至り其の運動は諸方面より多大の共鳴を得、帝国議会に於ける質問演説、学界よりの政府への建議などがあって遂に同7年に学術振興会の設立を見るに至ったのであって而して先生は理事長として其の事業に非常な熱心を以って従事せられ老齢を物ともせず東奔西走事業の発展に尽瘁せられたのであって同会の今日の発展は先生の努力に感謝せざるを得ないのである。先生は上述の諸種の公共事業の他に尚理学文書目録委員会会長、東京女学館理事長兼館長、服部報公会理事長、啓明会評議員、三井報恩会評議員、日英協会副会長、日本中央文化連盟副会長であり更に尚理化学研究所、東北更新会、英語教授研究所、癌研究会、帝国発明協会、日本度量衡協会、白十字会、日伊協会の諸団体の顧問又は名誉顧問若しくは名誉会員として諸種の事業に関与せられたのである。

先生が国内に於ける諸種の事業に関与せられ直接或いは間接に学術の進歩に貢献せられたるのみならず又わが国の学界を代表してしばしば海外に出張せられ我が国に於ける学術の進歩を欧米の学界に紹介して以って彼我の学界の連絡を緊密にせられたる其の功績は余等学界人の深く感謝せざるを得ないのである。先生が本邦代表として出席せられたる祝典、国際会議に就き次に略述せんと欲する。

明治34年グラスゴー大学創立450年祝賀会に出席せられ其の際名誉法学博士(L.L.D.)の学位を授けられ又昭和12年に万国学術協会会議(万国学術研究会議の改名)に参列の為ロンドンに赴かれたる際ユニバシティ−・カレッジより名誉学友(Honorary Fellow)の称号を受けられた。これ等が先生の海外出張の最初及び最後のものであるがそれ等の間に明治40年に万国理学文書国際会議(ロンドン)、同43年に万国学士院協会総会(ローマ)、大正7年に科学学士院国際会議(ロンドン)、大正11年に万国学術研究会議総会(ブリュッセル)及び万国理学文書国際会議(ブリュッセル)、大正12年に第2回汎太平洋学術会議(オーストラリア)に我が代議員の団長として、昭和3年に万国学術会議総会(ブリュッセル)及び第9回万国化学協会総会(ハーグ)に出席せられた。而して大正11年より同14年まで並びに昭和3年より同5年に至るまでの2回に万国化学協会の副会長選挙せられ又大正15年我が国に於いて開催せられたる第3回汎太平洋学術会議には会長として其の会議を克く主宰された。又上記の昭和12年の万国学術協会会議の総会に参列せられ副会長の席に推挙せられたのである。

先生は又仏国化学会(大正12年)、英国化学工業協会(同年)、英国ロイヤルインスチチュション(大正14年)米国化学会(大正15年)、ソ連学士院(昭和2年)ポーランド化学会(昭和4年)及びロンドン化学会(昭和6年)の名誉会員に推薦せられた。

櫻井先生が明治9年の留学より本年82歳の高齢に達せらるる60有余年間に於ける先生の事跡は制限せられたるこの紙片に於いて文筆の拙劣なる余の克く叙述し得べきものではない。先生は厳粛であったがまた甚だ懇切であって余のごときは50年許の長い年月の間公私共に先生から非常な御懇情を辱<カタジケノ>うしたのである。是を以って余は身の不肖を顧みずこの稿を草して以って感謝と哀悼の意を表した。